オランダ 歴史

ホールンの街を守る2つのゲート【ホールン街歩きレポ③】

2018年6月23日

( ゜▽゜)/こんにちは!マリ姐です。

ホールン街歩きはまだまだ続く!

ホールンの街を歩こう!③

今回のルートマップ

今回レポするのは赤い印のところです。水色の印は特徴あるレリーフなどがある建物ですが、かなり抜けもあるのであくまで参考程度に。

基本、見渡せば古い建物がいっぱいよ。
てきとーすぎるニャ(;^ω^)

 

①De Roode Steen Square(ローデ・ステーン広場)

街の中心地。Roode Steenは英語だとRed Stone。昔は処刑が行われていた場所だったとか。

ここから見ると正面の建物がまっすぐに建ってないのがわかりますね。オランダの昔の建物はけっこう前かがみであることが多いです。

ここにはかつて市庁舎(スタダイス)があったらしいのですが(青い屋根の建物)、1797年に取り壊されています。

  

昔は石畳ではなかったのね。
市庁舎も残っていて欲しかったニャ

 

ホールンの重要人物(ヤン・ピーテルスゾーン・クーン)

広場にはホールン出身のヤン・ピーテルスゾーン・クーン(Jan Pieterszoon Coen)の像があります。

オランダ東インド会社(VOC)の第4&6代総督で、現在のジャカルタにVOCのアジア拠点バタヴィアを築いた人物です。VOCの総督の中で一番有名で、なおかつ一番議論されている人物だと言われています。

ここで世界史で習ったアンボイナ事件を復習してみよう。

大航海時代、モルッカ諸島アンボイナではイギリスとオランダが香辛料を巡って争ってました。両国の間で協定を結んだのにもかかわらず、オランダはこれを無視して勝手に取引を行っていました。

1623年、オランダが不審人物(イギリスに雇われていた日本人傭兵)を発見。拷問にかけたところ、イギリスが砦を占拠しようと企んでいると自白。これによりオランダはイギリス商館を襲い、商館員全員を殺害しました。

実はこれを仕組んだのがクーンじゃないかと言われてるニャ

これを機にイギリスは東南アジアから撤退し、インド方面に力を入れるようになります。香辛料貿易はオランダの独占状態に。事件については31年後、オランダがイギリスに賠償金を払うことで決着がつきました。

クーンはオランダの繁栄に携わった人物かもしれませんが、アンボイナ事件以外にもバタヴィアを建設する為にかなりの虐殺を行ったとされています。暴力的な行動から彼に対する評価が変わり、像の撤去を求める抗議運動が起こりました。最終的に像は残すことになりましたが、2012年にプレートは取り替えられ、様々な見方をされている人物であると内容が訂正されています。

 

②waag(計量所)

1609年に建てられた計量所。貿易の全盛期には大量のチーズがここで取引されていました。 現在はレストランになっています。テラス席にはいつも人がいっぱい。どんなに紫外線がでていても、オランダ人はテラスが大好きですよね。

中の人は美白命ニャ!

ホールンのマークってかっこいい…

 

ここから街の東に向かって歩きます。レリーフや彫刻などで飾られた家がたくさんあるので、ゆっくり歩いていきます。

右のレリーフはチーズを運んでるとわかるけど、真ん中のレリーフは現代っぽいので、後で付け加えられた可能性が高いですね。Drechterlandsehuisという正式な名前のある家だそうで、この街一番のお金持ちの所有だったそうです(この後でてきます)

 

こちらは他の都市のシンボルマーク。前回でてきた建物と同じようにお偉いさんが利用した建物だったのかも。

 

③Foreestenhuis

ホールンで一番裕福だったForeest家のお屋敷。 Nanning van Foreestはホールンの市長、東インド会社と西インド会社の重役でした。1671年から1801年まで一族が利用し、その後売却。現在はパブリスト教会、レンタルオフィスとして利用されています。

立派な建物ニャ
石造りの家=お金持ちってわかるわね。

Foreest家はこの通りにあるかなりの建物を所有していたらしく、この前にでてきた家もForeest家が買い取ったものだそうです。

 

Foreestenhuisを過ぎたあたりからローデ・ステーン広場方向を見た様子。建物が斜めになってるのにどうしてもツッコミを入れたくなる。

日本だと欠陥住宅扱いになるんじゃないだろうか。
オランダは地震がほとんどないのニャ

 

④Oosterkerk

ホールンでは2番目に古く、一番海に近い教会。1453年に建てられ、雷でファザードが破壊された後、1616年に修復されました。元はカトリック教会でしたが、1519年にプロテスタント教会として利用され始めます。毎回ひと気がまったくないので、利用されているのか疑問だったんですが、ホームページもFacebookもツイッターもありました(HP以外ほぼ更新されてないけどw)。来年で500周年なんですね。

風見鶏ならぬ風見船ね。
中の人が喜ぶポイントなのニャ!

もともと船長や漁師の為の教会だったようです。

 

中には立派なパイプオルガンとステンドグラスがあります。公式HPの写真や動画で中の様子が見れました。帆船のステンドグラスもあるようです。見たかったなぁ。➡Oosterkerk Hoorn

 

⑤Bossuhuizen

1573年にあったゾイデル海の海戦(前回参照)について描かれているレリーフが特徴的な家。

描かれているのは提督コルネリス・ティルクスゾーン率いる海乞食と、ブッス伯マキシミリアン・ド・エナン=リエタール率いるスペイン軍との戦いです。

この戦いは海乞食が勝利してブッス伯は捕虜となります。西フリージアン博物館にブッスの名前の入った展示物がありました。

スペイン船の飾りの一部かと思われます。船尾かな?帆船の彫刻が美しい。これだけ残しておいたのもわかります。

 

⑥Oude Oosterpoort(Gevangenpoort)

この跳ね橋の向こうには1511年に建てられた街のゲートが設置されていました。

これが以前のOude Oosterpoortです。玉ねぎ屋根が特徴で、なんだかアラビアっぽい感じの建物。この次にでてくるOosterpoortと一世紀半ほと一緒に存在していました。ゲートとしての機能は新しい方にに移り、こちらは刑務所などの用途で使われた時期もあったそうです。しかし、1818年に破壊されています。なんてもったいない!

 

ということは、このブラウの地図は2つのゲートが同時に存在していた間に描かれたものということになりますね。

玉ねぎ屋根のゲートを生で見てみたかったなぁ
残ってなくて残念ニャ

 

跳ね橋から海側を見ています。上の地図で造船所になっていたところは、比較的新しめの家が建ってるようです。帆船の代わりにヨットがたくさん。

 

⑦Oosterpoort

そしてこちらが街が拡張され、1678年に建てられた新しい方のゲート。ゲートは他にもありましたが、現在残っているのはこれだけです。昔は橋が木製でした。

 

なんか洗濯物が干してあるんだけど。まさか誰か住んでるの?
日光浴用のチェアも置いてあるニャ。

冬に来たときはなかったと思うんですが、明らかに人が住んでいる気配がありました(インターホンもあり)。オランダでは歴史的建造物が会社だったり一般家庭として利用されていたりすることは普通にありますが・・・ここシャワーとかあるのかな?wこの日一番の謎でした。

 

そんなわけで、第三弾はここまで!
次回は海沿いを歩くニャ!

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