もっぱらオランダの東インド会社推しの私ですが、最近北欧の東インド会社も気になっています。オランダほど色々残ってはいないかもしれませんが、今度はそっち方面に旅するのもありかもしせません。
ホールン街歩きの続きです!↓
ホールンの街を歩こう!④
今回のルートマップ
海沿いを歩きます。青い丸印は特徴ある古い建物を指しますが、密集してるあたりの数は適当ですのであしからず。
小さな橋を渡ります。左に見えるとんがった建物のある場所はかつての造船所です。ここでヨットを帆船に脳内変換(^^♪
さて、海沿い最初のスポットは・・・
①Kamer van de WIC
1629年に購入された西インド会社ホールン支社の建物です。1791年に西インド会社は解散。その後様々な用途で使われた後、19世紀にフリーメーソン・ロッジ・ウエスト・フリースランドが所有することに。飾られているL、W、Fの文字は後からつけられたもので、「ロッジ・ウエスト・フリースランド」の略称です。
オランダ西インド会社とは
スペインの資金源となっていた中南米の銀を絶つ私掠戦行為が目的で設立された会社。アムステルダム、ホールン、ロッテルダム、ミデルブルグ、フローニンゲンに支社があった。後に植民事業、奴隷貿易に着手する。
これは西フリージアン博物館に飾られているホールンの絵画の拡大ですが、位置を考えるとこれがかつての建物だったと思われます。
西インド会社を指す『GWC』(Geoctroyeerde Westindische Compagnie)の上にホールンのH。建物の姿が変わっても歴史的なマークはきちんと残すようにオランダでは決まりがあるんでしょうか。
西インド会社の建物の隣にもレリーフや年代付きの古い建物が数軒あるので、是非チェックを!
ここでまたブラウの地図登場。現在ヨットだらけのハーバーにはかつて帆船がたくさん並んでいました。現在位置は右下の小さな橋を渡った突き当りのところです。ここからホーフト塔を見ると・・・
こんな感じ。ここからホーフト塔方向をズームで撮るといい写真が撮れますよ!右側は今、緑でいっぱいですが、古地図を見るとかつては家があったことがわかります。ここをぐるーっと周るのがオススメです。癒されます♪
また、対岸の家の様子もじっくり見ることができます。古い建物が多くて楽しい♪
対岸で見た後は、建物の前の通りを通ってレリーフをじっくり見ます。やっぱりカッコいい。
東インド会社とボンテク船長
Willem IJsbrantsz. Bontekoe (1587-1657)
ボンテクはホールン生まれ。父の後を継ぎ、船長として貨物輸送船で生計を立てていました。その時に、バルバリア海賊に襲われ、奴隷として弟と共に売りに出されたそうですが、イスラム教に改宗したオランダ人に買われ、オランダに帰ることが許されています。
1618年、31歳で東インド会社(以下、VOC)の船長となります。Nieuw Hoornというイーストインディアマンに乗り、11隻の船、206人の乗組員で東インドに向かいました。
旅は順調とはいかず、17人は壊血病で死亡。誤ってブランデーの樽に火をつけたことで火薬を搭載した船は爆発。117人が死亡しました。
イーストインディアマンとは
17-19世紀に各国の東インド会社で利用されていた武装商船の総称。
壊血病とは
長期間のビタミンC不足により、体内の各器官で出血が起こる病気。船の巨大化、長期航海が増えるにつれ、新鮮な食べ物の補給をこまめにしなくなり、犠牲者が増えた。原因が解明されたのはかなり後のことである。
助かった乗組員はボートで過ごすことになるのですが、今度は飢えとの戦いになります。いよいよ飢えが深刻になり、キャビンボーイを殺そうという意見がでましたが、ボンテクはそれに反対。あと3日待つことになりました。そして期限ギリギリで、なんとかスマトラ島の海岸に辿り着いたものの、乗組員が現地住民に殺され、最終的な生存者は約55人に。その後、VOCの船に保護されます。
その後はバタヴィアにいたVOC総督コーンの指示で、ボンテクは東アジア内を航海しました。1625年にVOCを退職し、ホールンに戻ります。
VOCに所属していたのは7年ほどでしたが、ひと月あたり100ギルダー以上を稼いでいたそうです。
東インド会社がいかに儲けていたかがわかりますね。といっても、常に危険と隣り合わせなのでそれでも安い気がしますが。
ボンテック船長はそれを元手にして投資をし、木材取引、金融取引にも関わっていたそうです。また、ホールンにある数多くの家屋を所有しました。
船長を引退して約20年後の1646年、ボンテク船長に関する書籍が出版されます。しかし爆破で航海の資料が失われていることもあり、実際には脚色されていたようです。
そしてこれから、でてくるのはボンテク船長に関わるスポットです。
②Geboortehuis Bontekoe(ボンテク船長の生家)
牛のレリーフと風見船が特徴の家。現在は個人宅となっている模様。
この家と同じ通りにボンテクの名前のついたレストランがあります。
レストラン情報はこちら➡Bar & Kitchen BONTEKOE
また、ロッテルダムにはボンテクと名の付いたチョコレートのお店があるのですが、そこのロゴが牛です。オランダ人にとって「ボンテクといえば牛」は常識なんでしょうか。
チョコレートの情報はこちら➡De Bonte Koe chocolade
③ボンテク船長の胸像とキャビンボーイの像
埠頭の先にはボンテク船長の胸像があります。イラストと似てますねぇ。
また、ホーフト塔のすぐ近くには海を見つめる少年像があります。
ボンテク船長の書籍を元に、1924年には『De Scheepsjongens van Bontekoe(ボンテク船長のキャビンボーイ)』という児童図書も出版されており、様々な言語に翻訳されています。その中に登場するPeter Hajo、Padde Kelemeijn、Rolf Romeynという3人のキャビンボーイがこの3人です。
基本的にホールンの施設は日本語に対応していないんですが、なぜかここの石碑には「ボンテク船長のキャビンボーイ」って日本語で書かれています。
④Hoofdtoren(ホーフト塔)
1532年に建設された防御塔。防御機能が失われた後、Noordse Compagnieが入り、現在レストランになっています。
Noordse Compagnieとは
1614-1642にかけて設立された捕鯨の為のカルテル。当時の捕鯨は食肉ではなく、鯨油が目的であった。乱獲による資源量低下、石油の発掘、代替油の登場により、捕鯨会社の存在意義がなくなった。
裏を見ると半円塔というのがわかります。上の方の白い部分はのちの時代につけたされたものです。来るたびに次こそは中に入ろうと思うんですが、どうしても街歩き優先にしてしまう。ホールンに来るときはいつも昼ごはん食べてないんですよねぇ(;'∀')
レストラン情報はこちら➡De Hoofdtoren
⑤the VOC-museum ship the Halve Maen
ヘンリー・ハドソンが船長だったVOC船のレプリカが展示されている博物館です。
というわけで、ホールン街歩き海沿い篇でした。いよいよ終盤に差し掛かります!