今日はアムステルダムの地味ながら特徴ある旧教会について!
※今回の写真は2015年訪問時のもので、昔のブログ記事に加筆してあります。ご了承下さい。
飾り窓地区にひっそりと佇む教会
飾り窓地区のメイン通りから少し離れたところにある旧教会。
13世紀に木製の礼拝堂が建てられたのがはじまりで、14世紀にに石造りに建て替えられました。元はカトリック教会でしたが、現在はカルヴァン派プロテスタント教会になっています。
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この旧教会には、海の英雄のお墓がたくさんあるんです。
ミュージアムカード利用可能。
ミュージアムカードに制限がかかってしまったので、ここに来る人は今後少なくなってしまうかもしれません。でも海洋国家オランダならではの教会で、静かに過ごせるのでマリ姐的にはオススメです♪
私が訪れた時は、「どこから来たの?」と聞かれ、「日本からです」と答えたら、日本語解説の書いてあるラミネートを貸してくれました。
教会の内部
プロテスタントの教会なので、内装は控えめです。王宮の隣にある新教会と比べると圧倒的に人が少ない。私以外には数人の客しかいませんでした。
Beeldenstormとは
16世紀のヨーロッパで発生したプロテスタントによる偶像破壊行為。オランダの場合は1566年にネーデルラント南から北に広がったカルヴァン派プロテスタントによる行為を指す。
以下でもBeeldenstormに触れています。
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墓標に帆船!
そしてよく見て欲しいのが、海の英雄の墓標!!
さすが、墓標にしっかり帆船が描かれ or 刻み込まれています。
マリ姐の注目すべき2人
海軍以外にもオランダに重要な影響を与えた人物が眠っていました。
個人的に注目したのは、Kiliaen van Rensselaer。
東インド会社での貿易でダイアモンドと真珠の商人として大成功し、また西インド会社の創設者でもあった人物です。ニューネーデルラントの土地を購入し、開発に力を注ぎました。
そして、
ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク(Jacob van Heemskerck)!!
今回のメインはこの人物です。
北東航路への挑戦。3回の航海。
ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルクはオランダの探検家であり海軍提督です。北極探検をしただけでなく、アジアで海軍としても活躍。軍艦の名前にもなっている人物です。
大航海時代当初、ヨーロッパから東洋へ向かう航路はポルトガルの影響下でした。
ポルトガルの極秘地図をこっそり書き写して他国に情報を漏らしたリンスホーテンは、アフリカを経由するよりも北極海を経由した方がアジアに簡単に行けると主張したのです。
そして、後から東洋を目指したイギリスやオランダはポルトガルを避けて北東航路に力を入れます。
今なら氷がたくさんあってムリでしょ!!と思いますが、当時は「夏なら氷は溶けるっしょ!」と簡単に考えていたようです。生死に関わるのに、めっちゃポジティブ・・・
【リンスホーテンについてはこちら】
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そんなわけで、オランダは船をだすことになり、その船に乗ったのがウィレム・バレンツ(Willem Barentsz)。ヘームスケルクは1回目には参加していません。
リンスホーテンとバレンツを乗せた船はカラ海+150マイルまで到達。しかし、氷に阻まれそれ以上は進めませんでした。
この航海は成功とみなされ、2回目の船をだすことになります。
2回目の航海では7隻の小船で出発。バレンツの友人、ヘームスケルクも同乗します。
冷夏だった為、カラ海にも入れず、退屈しのぎに水晶のでる島に上陸すると、そこでホッキョクグマ(=シロクマ)に遭遇。水夫が何人か殺され、2度目の航海は終了しました。
3回目の航海は2隻の小型船で出発。
片方の船はヘームスケルクが指揮し、バレンツも同乗しました。ちなみにリンスホーテンは参加してません。
前回と違うルートを使った為、成果は上がったものの、途中でもう片方の船長とはケンカ別れ。片方の船はオランダに帰国します。
そして・・・バレンツ&ヘームスケルクは調子に乗って進み過ぎ、ノヴァヤ・ゼムリャ島(Novaya Zemlya )に到達。気づいた時には氷に阻まれ、動けなくなりました。
小屋で越冬することに
幸い氷に入り江に押し込まれたので、彼らは陸上で越冬することを決意します。船を解体して小屋を作り、ホッキョクグマやホッキョクギツネを捕獲し、毛皮で防寒しました。
ビタミンA過剰症
ビタミンAの過剰摂取により体に悪影響がでること。皮膚の荒れ、骨の痛み、食欲喪失、出血、肝肥大、吐き気、頭痛などがある。ホッキョクグマは肝臓に高濃度のビタミンAを保有しており、人間が食すと死亡することもある。
どんなに食べるものがなくても、ホッキョクグマの肝臓は食べてはいけませんよ!
ちなみに、ホッキョクグマだけでなく、北極圏の食物連鎖ピラミッド上位の動物は皆、肝臓に高濃度ビタミンAを保有しているらしいです。北極圏に行こうという勇気のある人は要注意です(そんな人読者の中にいるかなーw)
アムステルダム国立美術館には、ヘームスケルクらが過ごした小屋で使われた道具(蝋燭、時計、角の容器)が展示されています。
解説をおーざっぱに訳してみました。↓
1596年5月、17名を乗せた船が中国への道を探索する為にアムステルダムから北極海に向かった。ウィレム・バレンツとヤコブ・ヴァン・ヘームスケルクが探検隊を率いて、ロシアのノヴァヤ・ゼムリャ島の周りを航行した時、北極の氷に阻まれてしまう。乗組員は9か月の間、自分達で作った小屋で過ごさなければならなかったが、極度の寒さとホッキョクグマから身を守ることができた。長い冬の後、生き残った12人はボートで文化圏に辿り着いた。これらの品々は19世紀に彼らのキャンプ跡で発見されたものである。
この時計は元々贈り物か交易品として用意されたもので、極夜(⇔白夜)の期間、時間の感覚を失わない為に小屋に飾られた。
バレンツとヴァン・ヘームスケルクは探検記録をツノの容器に入れており、300年後に現地で発見された。
毎回飛行機で近づく度に、聖地巡礼した気になっています。右の縦長の島がノヴァヤ・ゼムリャですが、ロシアの核実験が行われている場所ですから、まぁ、行くことはないでしょう。
小屋も完全な形で発見されたということですが、ハーグにあるということ以外不明です。実際に見てみたいんですけどね。
最後に、その後の話を。
アムステルダムに戻ったヘームスケルクは偉大なリーダーとして名をはせるようになります。
しかし再度チャレンジする機会には恵まれず、アジア航海の後、スペインとの戦いで命を落とします。
彼らの目的が達成されたのは19世紀後半。ノルウェーの探検家によって北東航路は通航され、その後横浜に到着しました。
現在、北東航路は夏の2ヶ月間だけ使われていて、残りの季節は流氷に覆われて航行不能になります。
温暖化自体は望ましいことではないですけどね。ただ、海賊(今もいるなんて驚きですが)に襲われづらく、治安がいい航路として注目されているようです。
というわけで、オランダ観光の際は北東航路の歴史をちょっとかじっておくと、より楽しいものになるかなと思って取り上げてみました。
以上、マリ姐でした!